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ノムさん

コラム

こんにちは。
河野です。

私にとってとても悲しい出来事がありました。
2020年2月11日に偉大な野球選手であった野村克也さんが亡くなられました。

往年のプレーはもちろん観たことはないですが、ヤクルトの監督として1990年代にご活躍され、とても強かったことを覚えています。日本一にも三度なっています。
ちょうどその頃、私は少年野球をしていましてテレビを点ければナイター中継が月曜日以外ほぼ毎日放送されていましたので(多い時には3試合くらい放送されていた)、チャンネルを替えながらずっと観ていた記憶があります。

ノムさんはキャッチャー出身で、私も小学校高学年の時にキャッチャーをしていました。
当時は多くの少年野球チームで、チーム内のぽっちゃり目の子がキャッチャーをしていました。
ドカベンの影響?的が大きいから投げやすい?からですかねぇ。私のチームも例に違わず、ぽっちゃりの子(ぽっちゃり「目」の子ではないです)がキャッチャーをしていましたが、太り過ぎて動きが鈍くなったのでボールを後逸すると簡単に次の塁に進まれてしまうので、私は当時ガリガリでしたが動けるという事でショートからキャッチャーにコンバートされました。
当時の所属していたリーグのルールとして、ピッチャーは変化球禁止でしたので、ストレートのみ(といっても山なりまでとは行きませんが遅いです・・・)で、インサイドとアウトサイドを巧みに?リードしようとしました。が、いかんせん、少年野球のピッチャーはノーコンばかりです(+o+)

インサイド、アウトサイド以前に頭を使うとはではなく、いかにしてストライクゾーンに球を投げさせるかでした。所属していたチームのピッチャーの球のスピードはそこそこ速かったのですが、3回になると毎試合打ちこまれたり四球を出して自滅していました。自分でも「魔の3回」と呼んでいました。明らかに球を置きに行っていました。そこを何とかナイスボールとか声を掛けて励ましながら?リードをしていたつもりです。

と言った感じで少年野球はルールを覚えていれば、本格的な頭脳を必要としないです!!たぶん。
ズバ抜けた子がいれば勝てる!!ので(^^;

そんなこんなで中学校ではバスケットボール部に入り( ゚Д゚)、そこそこ活躍したつもりですが、どうしても野球をやりたくなり高校に入って硬式野球部に入りました。
高校でもキャッチャーをしていましたが、そこで先輩に勧められたノムさんの著書に出会いました。

次回に続きます。